東日本大震災から7年。私にとってこの日は、18,434人の犠牲者に黙祷を捧げるというよりは、ただ1人の友人に思いを馳せる日です。
2011年3月11日。帰宅難民になり神楽坂から下北沢の自宅に歩いて帰る途中、新宿の大型ビジョンで初めてあの映像を見ました。
当時東北に親しい友人が2人いて、映像で初めて事の大きさを知り、血の気を失いその場に座り込みました。でも「きっと大丈夫、そんなはずはない」とどこかでそう思ってる自分もいました。
翌日、仙台に住む親友から短いメールがきました。
「車中にいます。めぇにだけ連絡してます。携帯の充電ないからみんなに無事を伝えてくれる?」
無事だった。ほっとして頭がおかしくなるくらい泣きました。もう1人の友達もきっと大丈夫。今は現場が混乱してるだろうから連絡を待とう。
その淡い期待は見事に裏切られ、まるで暴力のように友人の命は奪われてしまいました。友人とは二度と会うことができないまま、お葬式でご遺体に対面することすらかなわないまま、今に至ります。
遅れて行われたお葬式の弔辞で、友人が「怒りしか感じません」と声を震わせて言いました。その言葉にハッとしたけれど、一体何に怒りをぶつければいいのか、誰に怒りをぶつければいいのか、そもそも何が起こったのか、何も分からないまま、呆然としたまま、現実を受け止められず、人形のように涙だけが溢れて感情が追いつきませんでした。身体と心がバラバラになった感覚でした。
友人に最後に会ったのは、震災の4ヶ月前。仕事で宮城から東京に来ていて、時計の買い物に付き合ってもらいました。電車の時間がなくて「またね」とろくに挨拶もせずに別れました。また会えると信じて疑わなかったことを、今も後悔しています。その時計は電池切れで動かなくなったけれど、新しい電池を入れて時を動かす勇気はまだありません。
なぜ友人が命を落とさなければならなかったのか、なぜもう友人に会うことができないのか。人の寿命って誰かに操作されているのか。なぜ?なぜ?会いたい。寂しい。答えが見つからず、今もまだ受け入れられない自分がいます。
「めぐみの願いは絶対叶うから、楽しみにしてればいいよ!」。私が壁にぶつかったときに友人がいつも言ってくれていた言葉。大変な状況でこそ楽しむ。友人の考え方は今も私の中に刻まれています。
この7年で私は結婚し、宮崎に帰り、2児の母になり、当時とは取り巻く環境も立場も全く変わりました。守るべきものが増え、自分の命よりも大切と思える存在を得て、あの頃よりずっと強くなりました。
年に一度誕生日がきて年をとり、家族が増え、そんな誰にでも当たり前に与えられる権利を、当たり前のように行使しています。その機会を全て奪われた友人はどれだけ無念だったか。
友人も震災さえなければ、誰かと出会って結婚したり、または仕事に情熱を燃やしたり、そんな普通の幸せの階段を登れたはず。そういう日常を一方的にもぎ取られた人が18,434人もいて、その一人一人に関わっていた方が無数にいたと考えると、改めて大変なことだったんだなと怖くなります。
うちの夫婦は些細なケンカばかりしていますが「ケンカを翌日まで持ち越さない」というルールを決めています。どんなに腹立つことがあっても、寝るまでや出かけるまでに必ず話し合って仲直りをしてから寝る、というものです。いつ何があるか分からないから、万が一のときに悲しい思いをしたまま離れ離れにならないように。自分の経験と、被災者の方をたくさん取材してきてたどり着いた結論です。
毎朝起きて家族に「おはよう」と言える毎日は当たり前ではないこと。日常を普通に過ごせることがどれだけありがたいことか。つい忘れそうになるけれど、今の環境に感謝をして、生かされてることに感謝をして、毎日を一生懸命に生きてくことしかできません。
宮崎だって他人事ではありません。起こってしまった悲劇を教訓に、危機感をもって海岸線の防災対策に身を入れなければ、宮崎で明日同じことが起こってもおかしくないのだから。FAAVOとして、東北でも宮崎でもできることがきっとあるはず。前を向いて自分にできることを探していきたいです。
目の前の子育てや仕事に追われる毎日で、当時のことに思いを馳せる時間は減ってきました。2人の子どもの成長を見ながら、私の時間は進んでいるのだと実感しています。
でもこれから何十年経とうともこの日は歩みを止めて、「ただいま」と家族が帰ってくる当たり前の日々に感謝し、「バイバイ」と別れた友達にまた会える当たり前の日々に感謝をする日にしたいと思います。
友人が天国でご両親と会えて、穏やかに過ごせていますように。
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